割引美人

妄想と事実を区別せず遠慮なく垂れ流し

右の手の甲

2011.08.28 Sunday[11:58] 散歩 - -

 お互い用事で出かけていた場所が意外と近かったので、特に用は無いものの顔を見ておこうかと、連絡しあって彼と会った。乗る電車を携帯のメールで連絡していたため、自然と待ち合わせが駅前になった。もうすっかり秋のはずだったが、少し日が傾いているのに暑いので、涼を取ろうと駅前の大きな百貨店に入った。思った通り、冷房がしっかり効いている。百貨店の入口周辺は改装工事をしたばかりで新しく明るい雰囲気だったが、百貨店の1階と言えば化粧品売り場、あの臭いが苦手な私は少々うんざりした。
 案の定、彼は化粧品売り場を冷やかし始めた。あれこれ覗きながら、多くの女性たちの間を無言かつ無表情で通り抜けて行く。どうやら新製品のキャンペーンらしい、あるブランドの前で彼は足を止めた。ほとんど息を止めたまま後ろをついていた私は、何が彼の気を惹いたのか考えながらその新製品を観察した。小さなケースに入ったクリームだ。きっとやたら分厚いケースで、中身は30グラムくらいだろう。ぼったくりだよなあ、と思った。
「新製品の美白クリームです、お試しになりませんか」
 販売員が愛想の良い微笑みを浮かべながら話しかけてきた。他に手近な客がいないとは言え、私のように見るからにスッピンの、メイクにはまるで興味の無さそうな客にも声をかけなくてはならないのだから大変な職業だなあと思いながらも、彼がこのクリームに興味を持っているのは明らかだったので、売り場の悪臭をなんとかしろと思いながらも微笑んで頷いた。
「こちらは新製品でして、これまで以上に保湿と美白の効果がありまして……」
 説明をしながら私の右手の甲にクリームを塗りたくっていく。両手で包み込まれるような仕草で、他人に触られるのは苦手なんだよ勘弁してくれと心の中で叫ぶ。たぶんちょっと鳥肌がたっていただろうが、声が震えないよう努力しながら一応質問を挟んでみたりした。もっとも、「これまで以上」などと言われても、これまでのことなんか何も知らないので恐らく見当外れの質問だっただろう。彼はまったく他人のような態度で私の後ろに立っていた。まあ、他人には違いない。
「奥様、肌が白くてお奇麗ですね」
 販売員が彼にも話しかける。その台詞は、私よりもはるかに色の白い彼に言うものなのだろうか。彼は無言で、頷きもしない。いつも通りの愛想の無さだが、自分から来たのにその態度はいただけないなと私は思う。
「ご主人様も奥様が奇麗になるのは嬉しいですよね」
 おいおい、私は「肌が白くてお奇麗」だったんじゃないのか。なのに「奇麗になる」のか? 今もうすでに奇麗なのに? 良く分からんなあと混乱する私の耳元に彼がささやいた。
「このひと、メイドなんだね」
 彼にとって「ご主人様」という呼称は常にメイドが発するもののようだ。一度もメイド喫茶に行ったことが無いくせに良く言う、いや私が知らないだけで彼はもしかしたら常連なのかもしれない。ティーンエイジャーかもしれないメイドに「ご主人様」と呼ばれて、彼はいつも通り無表情なのか、それとも思いっきり脂下がるのか、見てみたい。尾行して。そう思ったらおかしく、ふふふと笑いあう私と彼を見て販売員が「お気に召していただけましたか?」と言った。
「きみもやってもらえば?」という私の提案と「ご主人様もお試しになりますか?」という販売員の提案に彼は首を横に振った。商品の説明が続き、渡された小さなパンフレットを見てたまげた。予想通り、内容量は30グラム、お値段は私が通っているスポーツクラブに支払っている会費1か月分よりも高かった。やっぱり百貨店は私のような底辺庶民の来るところではないなあと嘆息してしまう。今日、私も彼もジーンズだけど入店して良かったのだろうか。靴もかなり薄汚れたナイキランニングと阪神タイガースグッズみたいな色使いのニューバランスだ。
 わーお、と彼を見るとなんだか満足げだったので、彼の用は済んだのだろうと見当をつけ、「いやあ貧乏人には向きませんなあ、お値段が」と正直に告げて頭を下げた。
 その後は、ヨドバシカメラやビックカメラをうろつき、ガンプラを眺めまくり、新しいゲームを調査したり、プリンタやデジカメをいじってみたり。その3時間半ほど、彼はもうそのクリームの話題を出さなかったが、時折私の右手の甲を触っていた。販売員の言葉通り、保湿能力は半端無いようで、左手と比べると明らかにしっとりすべすべしていた。私は素直に感心した。
 腹が減ったから帰ろうと再び駅前まで来た。そろそろ閉店が近い百貨店の、入口近くの大きなはめ殺し窓から様子をうかがうと、先ほどとは違う販売員が、同じようにいかにも品の良さそうなマダムに商品説明をしているところだった。車の免許更新がギリギリだった視力の彼が、目を細めてそれを観察している。私は彼の隣に並び、窓枠に背を預けた。
「きみが入社以来8年開発に関わってたクリームだろう、あれ。何度か学会に行ってたやつ。違うか?」
 彼は答えなかったが、目元が満足そうに笑っていた。少しだけ首を傾けている。急な改修工事で、私が休日出勤して工作図面をひいた窓枠に寄りかかって。

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