ハリー・ポッターと死の秘宝part2
7月18日(月)に、映画「ハリー・ポッターと死の秘宝part2」を観ました。同行した友人と帰りに一服した際、感想は言っちゃったしtwitterでも少々発言したので、改めて語ることはあんまり無いような気もするのですが、感想というかツッコミを少々述べてみます。これから観るひとの参考にはたぶんなりませんが、自分のための記録として。
以前、自分メモとわざわざ書くけどほんとに自分メモなら公開しない、自意識過剰だというような発言をtwitterで見かけ、いやいやそういう言い訳みたいなことをやっているうちに本当に自分用メモになっていくものだよと思いました。他人が見ることを意識すると多少は分かりやすく書きますから後で自分が見たときにもちゃんと分かりますし。私の場合、手帳にメモした単語の羅列なんてまったく役に立ちません。それに、ブログに書けば、どこに書いたか分からなくなるという問題が解消されます。これも大事です。というわけで公開自分用メモというのはわりとメリットがあると私は考えています。この記事もそのうち、ハリポタの最終っていつ映画やってたっけ? というときにでも私の役に立つことでしょう。
さて、せっかくですから基本情報から。映画『ハリー・ポッターと死の秘法』は7月16日(土)から公開されており、監督はデヴィッド・イェーツで総制作費$250,000,000、3Dと2Dの両方です。我が家から最寄(自転車5分)のシネコンは2ヶ所あり、吹き替えの3D、字幕の3D、字幕の2Dの3種類の公開と、3Dのみ字幕と吹き替えの2種類の公開と、立場が分かれました。これはなかなか興味深い点です。個人的には他のシネコンも調べてどこがどんな勝負に出たのか眺めてみたい。
さて、2部に分けただけあって、あちこちを省くことは無くそれなりにきちんと分かり易くストーリーが述べられていました。原作の(つーか翻訳の)表現だと分かりにくいところも映像にするとあんな感じかと思うくらいにはちゃんと描かれています。どこらへんが私が原作で分かりにくかったかというのは具体的にあんまり出て来ないのですが、学校にみんなで攻めて来たところなんかは、なるほどねーと思ったところが色々ありました。
そうそう、あの学校に死喰い人がたくさん攻めて来たシーン、崖の上で勢揃いしているのがイナバ物置のCMみたいで緊張が切れます。せめてこう、「天と地と」みたいな感じであって欲しかったけれど。
セブルスの純愛っぷりが、どうにもストーカーっぽかったのがちょっと不満です。もっとキモイ少年だったら、ますますストーカーだったじゃないですか、あれじゃ。ちょっと可愛い少年だから、純愛っぽいですけど。いやもう、ほんと、セブルスはリリーに人生狂わされてるものねえ。思わせぶりな女、という受け取り方も出来ると思うの。
全体としては、原作でヴォルデモートとは何かというのが説明されたときに私が思った、「なんだお前が黒幕か」が、あんまりしっかりちゃんとそういう感じでなかったので拍子抜けしました。
どう考えても、ダンブルドアがトムに対する教育を失敗したのが、あの大騒ぎの原因じゃん。ダンブルドア本人から、ホグワーツの生徒だったが、まっとうな大人にしてやれなかったという主旨の悔恨が、正体が判明したころにありました。それで私は、おいおい校長が黒幕かよ、自分の失敗の尻拭いを知り合いの子供に押し付けてるだけかこのじじい、と思ったわけです。
だから原作を読んでいても、いつ、ふざけんなこのくそじじい全部てめえのせいじゃねえかよおおおおおと、JOJOもびっくりな感じになるとずっと予測していて、そうではなかったから驚きました。セブルスが校長に対していまいち素直に従う気になれない感じだったのも、リリーが死んだのはダンブルドアのせいだと少なからず思っていたからではないでしょうか。
トムは寂しかっただけではないか、褒めて欲しかっただけではないかと思うのですが、才能のある子を伸ばしてやれなかった、しかも不良少年→チンピラどころか悪の親玉にまでしてしまったというのは、ホグワーツの教育方針というか直接関わったダンブルドアのやり方に、大いに問題があったのではないかと思わざるを得ません。もちろん、学級崩壊だのなんだのの原因を担当教員の責任だけと思わないし、学校全体として取り組むべきですが、なんかほんとちゃんとやったの? とたいへん疑問です。その後どんだけ改良があったのか知りませんが、セブルスの様子や、ドラコのことを考えても、あんまり変わってないのでは? イギリスのああいう全寮制の学校で、寮ごとの対抗心を煽るのが一般的だとしたら、あんなものなのかもしれないですけど。
それにしたって、ドラコが段々とヴォルデモート陣営に引っ張られて行くのを分かっていて駒として使っている雰囲気のあるダンブルドアは、お前ほんとに教育者かよとしか。
内容はともかく、映画でこうなっててすげー! みたいなのは特になかったですね。
ただ、最後の最後まで、マルフォイ両親が本当に息子を大事に大事にしているというのは良く伝わりました。息子を連れて去って行く後ろ姿は良かった。乗る馬を間違えた中間管理職っぽかったルシウスも、家族第一主義のぶれない父親として面目を保ったと言えるでしょう。ハリーは自分ばっかりが苦労していて、みたいな態度で、ドラコを嫌ってたのはドラコが両親にこれでもかと可愛がられているからではないかとも思います。
で、最後の、子供たちをホグワーツ特急に乗せるシーン、さりげなくドラコもしっかりパパになってましたけれど、相手は誰よ!
相撲観てない
私としたことが今日は相撲中継のタイムシフト予約を忘れたので、原発その他について思うところを。
期待の新人、明月院は休場しました。心配ですね。蜂窩織炎、大学時代の豊真将が一度相撲を辞めた原因ですよこれ。
責任は政府にあるとかなんとか言うけど、その政府をやってる政治家を選んだのは国民だし、東電による人災ではあるけれども原発ので電気で便利に暮らしていたのだし、本気で反対するなら成田で立ち退かないひとたちみたいに主張しまくれば良いわけで、そうしないのだから消極的に賛成していたわけですから、何でもかんでも東電がとか政府がとか押し付けるのはあつかましいんじゃなかろうか。
原発がある土地は、補助金をたくさんもらってウハウハだった、だから今回の事故は気の毒だけどリスクを受け入れてお金にしていたんだからガタガタぬかすな、みたいな意見にも賛同出来ません。原発のおかげで電気をガンガン使って良い生活していたのはどこの誰だ、お前電気使っていなかったのか、そう思うからです。
電気料金は上げるならどかんと上げれば良いでしょう。それで、前年度の同じ時期と比較して、使用量が少なければ少ないほどキャッシュバック、そんな感じでやってみれば節電を超頑張るんじゃないかと思います。アンペア下げるひとも多いでしょうし、そしたら予想される使用量の上限も自然と下がります。
政府が政府がって言うのなら、政府の責任はつまり選んだ国民の責任だと思うので、全体的な負担が増えるのは仕方がありません。政府が政府がって言う前に、自分の政治家を見る目の無さを、そんでロクなやつがいないと言うなら自分が出れば、ということで責任の無いひとなんかいないのです。選挙権のある年齢ならね。あと痴呆とかで無い場合。子供は気の毒です。ああ、子供いなくて良かった。っていう問題じゃないけども。
ただ、東電のやり方等々はなんというか腹が立ちます。計画なんてあってないようなものなんだから停電予報にでもすりゃ良いじゃないかと思っていたら、Yahoo! では電気予報が始まりましたけど、あれも曖昧で非常にうさんくさいものです。それを人ごとのように「この先19時まで使用率は80%以上でしょう」なんてやるものだから呆れます。やってるのはYahoo! ですけれども、それでも白々しくてなんかもう。
天気と違って分母は東電が調整してんだろーが!
東電は予想される最大使用量プラスアルファで、その日の発電量を決めているはずです。これが、最大供給量ですね。決して、現状でギリギリまで頑張りまくって供給出来る限界量ではありません。
予想が多ければ張り切って発電し、少なさそうならぼちぼちで凌ぐ、それが無駄の無い電力供給の姿です。出来れば24時間平均的に電気を使ってくれると助かるがそうもいかないから調整してやっている、だから前年の使用量や気温などを元に発電量を決めるのはそれはそれで良いのです。
しかし、3500なら3500と予想し、じゃあ供給量は2割増くらいで良いかね、みたいな感じで決めた最大供給量に対して、一番使用量が多い時間帯でも8割かもうちょっとというのは当たり前のことなのです。予報もクソもありません。むしろ、東電の決めた最大供給量こそが「予報」でしょう。
前年度実績から、最大使用量のときにギリギリにならないような結果にするための分母を東電が決めているのです。それなのになんで予想使用量をパーセンテージで表すのか、意図とか意味とかさっぱり分かりません。そうなるように設定していることを予報として周知するのはインチキ臭く感じます。
これが、「前年度の使用量はこれだけ、今年の本気モード最大供給量はこれだけ、なので本日の最大はこのくらいに設定しました。去年と同じ調子で大丈夫です」とか「本気モードで頑張らないと前年度実績の様子ではヤバいのですが、今から本気モードだと燃料が足りなくなって後で困るので本日の最大は去年の使用量より少ないです。気合い入れて節電してください」とかなら納得です。
Yahoo! のトップに電気予報を載せておくことで節電の意識付けになる、ということだとしても、あのグラフを見るひとを騙しているっぽくて、私はあれは感じが悪いなあと思って見ています。
原発銀座である若狭が冒頭に出てくるミステリあったな、と本棚を漁って見つけました。有栖川有栖『海のある奈良に死す』 (角川文庫)、海辺の描写がとても美しく、死体との対比が象徴的です。海の描写は『朱色の研究』 (角川文庫)で舞台になった周参見の様子も清廉だったり禍々しかったり雰囲気色々で奇麗でした。あと『孤島パズル』もか、有栖川氏の海の書き方は好きだなあ。奇麗なんだけど寂しい感じがして。